"En Catimini" 松本 英子(まつもと えいこ)について。。。

 小さい頃からとにかく何か作っていました。
小学校の頃、祖母から編み目の作り方を教えてもらって自分で何度も練習したり我流で色々なものを編んだりしました。
そして、父の古くなったツイードのコートの肩がいかり過ぎていたのでほどいて肩パットを外して、自分のコートにしたりもしました。絵を描くのも大 好きで、 いつも何かを縫ったり編んだり絵を描いたり、という日々・・・

 今はもう亡き祖母、そう今私が制作しているものにはこの着物が大好きだった祖母の着ていた着物を多く使用しているのですが、ある日この祖母に 買っても らった1枚のブラウスは決して忘れる事のできないものとなりました。
Wコム・デ・ギャルソンWと言うブランドの事など何も知らない人だったのに、売り場の前をふらっと通りかかった時、1枚のブラウスを見て、「これ 素敵!買 うたげるわ。」と私が欲しいかどうかなど聞かずに買ってくれました。
この何の変哲もないふらっとカラーの透けるサッカー生地のブラウスに魅せられた中学生の私は我流で同じ形のブラウスを作りたいと思い、そして実現 したんで すから。
初めて私が作った洋服です。
何度も何度も脇の下などのほころびを縫い直し、着尽くしました。そして、そのあと、私は全てを解体する決心をしたんです。同じ形のブラウスを作る 為に。ま あ、この時何とか形にはなりましたが、一つどうしてもうまく行かなかったのが"えり"でした。
もちろん、中学生の私には"えり"のキセ(えりの折りかえり分の余裕)の知識はなく、表と裏のえりを同じパターンで裁断して作っていました。

 この時、本気で将来布を使って制作する仕事をしようと思いそのための勉強をしようと決めました。
どうしてもこの"なぞ"を解きたかったのと、開けても暮れても絵を描き、何かを縫ったり編んだり、そして染色したり、料理も大好きでそういうこと を楽しん でいるうちに、「私の世界を表現する空間をもつ!」と自分に断言していたんです。
とにかく丙 午の私ですから、もう毎日このことしか考えず突っ走る日々でした。

 そして、高校に入り、当然私の頑固な夢は消えるはずもなく、それどころか増すばかり。東京の美大で学ぶとひそかに心に決めていました。勿論、京 都には沢 山の大学や学校があるので両親はそんな事これっぽっちも予想はしていなかっと思います。
京都の人というのはあまり外に出ないので、私の周りでも殆どの人が遠くても大阪の学校に通う程度でしたから余計に突飛なことだったんです。
何とか両親を説得し、東京の学校で勉強できる事になりました。
その代わり、東京での風呂なし6畳一間、湯沸かし器もなく、電気ストーブ一つ、そして夏はクーラーなしの生活を余儀なくされました。
それでも、私はもう真っ直ぐに夢に向える事が嬉しくて嬉しくてたまらなくて、毎日学校で私が得たかった多くの事を教えてくれる事や膨大な課題にも 心の底か ら喜びがあふれてくるほどの感動の日々でした。(大げさに聞こえるかもしれませんが本当です。)
女子美では素材から自分達でデザインし、そして編・織・染の技術を使って先ず生地を作りそれを洋服に仕上げる事を学びました。これは私がもっとも 好きな物 づくりで、この学校で学んで良かった、と思いました。ですが、とにかくそのとき洋服のデザイナーを目指していた私は、もっと深く洋服の作り方(パ ターン・ 縫製)を学ぶ為、その後文化服装学院に入学しました。

 その後、ひょんなことから下着のデザイナーとして就職する事になりました。その頃、下着のデザイナーという存在さえ知らなかった私は、今思えば 不思議で すが何の抵抗もなくスッとこの仕事を始めたのです。
そして、13年、大きなメーカー組織のあと小さな会社、そして業務委託、フリー、とインナー業界で働きました。ほぼこの13年レースを見ず触れず に過ごし た日はなかったと思います。
この13年間の間にレースは勿論生地のことなど沢山学ばせてもらいました。

 その間、仕事の出張でも2度パリには来ましたが、年に一度ほどのペースでパリへ一人旅、旅というより"少しの間生活"をするという事を繰り返し ました。 短期アパートを借り、何の予定も立てずにパリへやって来て、ただただぶら〜っとあてもなく出かけ、マルシェで買い物をして料理して、おもしろい材 料を求め て生地屋街や蚤の市へ出かけ、思いついたことを絵にしたり文章にしたり。。。つかの間の心の安らぎを得ていました。

 そして、「やはり、パリに住もう!」と決めたのです。
もうそんなに若くはありませんでした。35歳でしたから。今を逃せば周りの状況もだんだん、益々海外へ出ると言うことが難しくなってくる、とそう 思い、下 着のデザイナーを辞めて渡仏したのです。
勿論、常に中学生のときからの「私の世界を表現する!」という夢は持ち続けていました。常に、私のアイデアで何かを作ること、これは私にとって何 よりも大 切です。

 会社を辞めてきてしまったため、日本に居た頃のような生活は出来ません。他の小さなアルバイトもしつつ、私の得意とする細かな手作業を生かした 作品の制 作を少しずつ、少しずつ進めてきました。

 2006年6月、初めての個展 "cofu" をパリのマレ地区にあるカフェで開く事ができました。
まだまだこれからですが、小さい頃からの夢「「私の世界を表現する!」という信念のもとに制作を続けて行こうと思っております。

Eiko MATSUMOTO